ごぶさたしております。
結局先月は何も書かずじまいだった。体調がずっと悪く、低調な 1 ヶ月間だった。風邪がなかなか引かないと思ったらどうやらイネ科の花粉アレルギーに移行していたようだし、狂い咲きの杉花粉はきっちり感じるし。
気力が湧かない時にこそ翻訳のような作業が捗ったりするもので、こっそりやってた邦訳は本家に捕捉されてリンクがついたり。ここまで来たら年末までに全部上げたいものだ。
本当はもっと早く書かなければならなかったのだが。
7 月 31 日に閉鎖を報じた nabesin さんの The Cubic Websiteが 9 月 30 日に復活している。ご本人からメールでお知らせ頂いていたのに、今まで放置していて失礼いたしました。
このテーマは先月書いたのだが、一度没にしていた。個人的な好き嫌いを吐露しただけの感情的な書きぶりだったからだ。今度はできるだけ論理的に書いてみようと思う。だから、書体の選択 (品が無いと思う) のような個人の好みに属する事柄には極力触れないことにする。過去との比較も最小限にとどめる。正直言って、杉浦康平のデザインがさほど良かったとは思わない。少なくとも、統一性に難があった。
夏以来暑さ・台風・花粉のせいでずっと出不精になっており、実物を見るより Web で見るのが先になった。第一印象は、「これが新書の背表紙? 官能小説の文庫本みたいだ」というものだった。感情的な反応そのものだが、こういう直観的連想にはだいたい論理的な理由があるものだ。書店に行って確かめてみると、自分でも気づいていなかった事がいくつか分かった。
背表紙が一番似ている文庫本は光文社文庫。彩度の高い特色に太いゴシック。次に似ているのは徳間文庫。文字は太い明朝だが、全体に似ている。このあたりの文庫のたたずまいを連想したのは正しかった (予想に反して、祥伝社文庫の背表紙は色が地味でグラデーションが入っており、似ていないことが分かった)。1 冊 1 冊異なる特色の背表紙が並ぶ風景は、キオスクやコンビニでよく見かけるもので、えてしてそういう所に置かれている文庫本は、官能小説の比率が高いものだ (一般書店では同一著者の本を複数並べるため、だんだらの帯ではなく色分けしたブロックが並ぶことになり、また異なった背表紙の風景が展開されることとなる)。あらぬ連想をした理由がお分かりいただけただろうか。
そもそも、背表紙画像を見て「文庫本」を連想したのは何故か。著者名の位置が新書ではふつう考えられないほど上に置かれているからだ。実物を見ると高さ 2cm の差があって文庫本とは間違えないのだが、Web 上の画像で見たからスケール感が無くなってバランスだけで判断してしまう。
ここで、新書本の背表紙における著者名の置き方の流儀について見ておこう。現在のメジャーな新書タイトルでは全てタイトルを上・著者名を下に配している。著者名の置き方は、ほとんどが 2 種類の流儀のどちらかに分けられる。
「古典的」な方法は岩波・中公や白水社の文庫クセジュといった歴史の長い新書で用いられて来た方法であるためそう呼ぶことにする。対照的に、新書創刊ラッシュ以降の刊行歴 10 年に満たない新書はほとんどが後者の方法を取っている。例外は、ちくま新書と光文社新書だけである (光文社新書の装丁は文庫とは裏腹に至っ手おとなしいが、カッパブックスとの差別化を意識した結果だろう。)。ちなみに、講談社現代新書の旧装は数少無い例外で、背表紙の中央部に 1 冊後とに異なるアイコンがあり、その下に著者名が来る。つまり著者名は決まったエリアに上揃えで置かれるわけだ (これをチープにして黒帯で区切ったのが宝島社新書だが、本によっては「古典的」な方法で、つまり帯を挟んでベタでタイトルと著者名を並べたりしていてわけが分からない)。
推測だが、この違いは結局、著者名をタイトルの添え物と考えるか、重要なセールスポイントと考えるかの違いに帰着するのではないか。「ある特定の専門分野に関する概観を一般人向けに示す」という啓蒙的な本を主体とする古典的な新書なら、背表紙が並んだ時に著者名の表記が横に揃わないのは問題とならない。著者名だけ見て買う客はいないからだ。ところが近年の新書はエッセイ的な内容の物が増え、著者もタレント的に名の売れた人であることが重視される傾向にある。いきおい、まず著者名で探すという文庫と似た購買行動を取る客も増えるわけだから、著者名を横に並べた方が便利でよろしい。
さて、新装の講談社現代新書を他の新書の並ぶ棚に挿してみよう。文春新書・集英社新書・PHP 新書などに比べて、ちょうど著者名 1 個分ほど名前の位置が持ち上がっていることが分かる。その分著者名のスペースが狭くなり、結果として、タイトルが 12 文字しか無いのに平体を使わなければならなくなる (新書のタイトルは説明的で長くなる傾向にある)。上が窮屈なのに下がスカスカに空いている (そこに、一回り大きくなった「講談社現代新書」の文字が入っている) のは素人目にもバランス悪く感じる。新潮新書が著者名をいちばん下に置いて中央がスカスカになっているのと対照的だ。
上がギュウ詰め、下がスカスカで気持が悪いのは表紙もそうである。左上のこぼれ落ちそうな位置に横組みでタイトルを置く神経がよく分からない (四角に真四角という対称性が高い基本デザインが、この気持悪さに拍車をかけている。安定感の無さは平凡社新書の斜め白抜き十字架といい勝負だ)。すぐに本の題字の上に折れ目がついて汚くなりそうである。正方形の位置もやたらと高く、帯を外して見ると様にならない。「いかに帯のスペースを確保するか」を気にしたに違いない (実際、旧装の帯より 1cm ほど太くなっている) が、べつに四角の上に帯を重ねてもいいではないか。
通巻番号を一番下 (価格表記の直下!) につけているのも相当ひどい。背表紙でそこだけ下地が黒いのだが、アクセントとはとても言えない。数字が 2 つ並んで紛らわしいから苦し紛れに色を変えたように見える。巻番号は余計な要素で見苦しいからという考えで下に移したのだろうが、それがそもそも間違っている。番号は新書にとっての主キーであり、その順番に従って本を並べるのだから、先頭に置くべきである。刊行順が離れていれば同一著者の本でも違うところに並べる・どんなジャンルでも一つの新書という鍋に放り込んで細かく分類しない、それが書き下ろしと並んで新書の柱となるコンセプトではなかったか。番号が若ければその本は年月の風雪に耐えて生き残った現代の古典であり、新刊に近ければ鮮度の高いことが分かる。番号順に並んでいるからこそ、ノンジャンルで雑然とした背表紙の並びから最近出た本だけをチェックするのが容易なのである。番号はタイトルの一部であるとすら言ってよい。関係者の皆様に於かれては、「ちくま新書[162]の刊行を望む会」でも読んで反省していただきたい。
デザイナーが悪いと言うより (まあ、新書を読む習慣が無いことはよく分かるが) この案をそのまま通した現代新書出版部が全面的に悪い。もしかして、講談社文庫の本文 1 歯ツメを決めたのと同じ人が決めたんじゃなかろうか (それとも、致命的なセンスの持ち主が社内に何人もいるのか…)。ファウストの使用書体に凝るのもいいが、その労力とセンスの半分でも文庫と現代新書のほうに割いてほしいものである。
根本的には、講談社現代新書が方向性を見失っていることが問題なのだ。ダメなデザインはその結果の一つにすぎない。傍から見てなぜ「現代」の 2 文字がついているのか (自社で週刊現代を出しているからではなかろう)、さっぱりわからない。講談社+α新書とどう色分けをしているのか判らない (判型の違いは分かるが)。一応、+αは実用書のくくりでハウツー物中心のラインナップだが、最近の現代新書の半分くらいは、タイトルのつけ方さえ工夫すれば十分+α新書に並べられるハウツー的な物が多い。逆に、野鳥売買 メジロたちの悲劇のような本がなぜ講談社現代新書に入らないのか、理解に苦しむ (作ってる部署が違うとかそういう話ではなく、内容面の問題である。これがブルーバックスだったら、誰が見ても「ブルーバックスに入る内容」かそうでないか判別できる)。これが新書のコンセプトに合わないと言うのだったら「現代新書」の「現代」は何なのだろう。岩波新書が青版ならいざ知らず、今やとっくに他社に追い抜かれて形骸化した看板にすぎない (時流に乗った物ばかり出すのは決していい事ではないが、それならそれで腰を据えて、ロングセラーになり得る本を出した方がいい)。内部的な制作体制はいくつに別れていても、レーベルだけは統合して縦組みの新書は「講談社新書」一本にしてしまった方がいいのではないだろうか。新しい新書は新書判ですらなくなるかもしれないが、そこまで視野に入れて検討すべき時期だろう。